ドル基軸通貨に代わる「魔法の杖」はない=竹中平蔵氏

竹中平蔵 慶應義塾大学教授

 [東京 1日 ロイター] 「米国の影響力は低下している。しかし、世界の問題は米国抜きでは解決しない」。国際政治の大家として知られるハーバード大学ジョセフ・ナイ教授(元米国防次官補)は著書などを通じて、かねてよりそう述べている。今後のドルの役割もこの言葉の中に集約されるのではないか。

 

 米国の相対的地位の低下を根拠とする「ドル危機論」はいまだに根強い。確かに、世界における米国の政治的・経済的影響力が、新興国の台頭などを受けて、今後さらに低下するのは必至だ。しかし、その結果として、ドル基軸通貨体制の崩壊につながると考えるのは早計だ。米国、そしてドルに取って代わる存在がないのは、後述するように、極めて明白な事実である。

 

 通貨の議論をする際に不要な技術論に陥らないためには、まず経済全体を俯瞰(ふかん)することが何より重要になる。その意味で、私が注目しているのは「多くのサプライショックが実は米国発で起きている」ことだ。

 

 サプライショックと聞けば、オイルショックのような供給の制約によるネガティブ・サプライショック(たとえば、素材価格の上昇が生産要素の投入を減少させ結果的に生産が低下するといったメカニズム)を連想する人が多いかもしれない。しかし、私が言っているのは、その逆のポジティブ・サプライショックである。

 

 典型例は、技術革新による生産性の向上だ。1990年代以降のIT・デジタル投資が生産性の向上を促し、米国経済の復権に役立った過程をいまさら詳述する必要はないだろう。ただ、米国は実は、90年代にもうひとつ別のポジティブ・サプライショックも経験している。ソ連の崩壊で東西冷戦構造が終焉し、軍事費をより生産的な投資に振り向ける機会を得たことだ。この「平和の配当」は、IT革命の進展にも貢献した。軍事部門にいたエンジニアたちがシリコンバレーなどにわっと流れ、それが民間部門の技術革新を促したからだ。

 

 新たなポジティブ・サプライショックの可能性も見えてきた。シェールガスに代表される次世代エネルギー源の登場である。供給面でのポジティブなショックは、米国経済全体を底上げしていくことになろう。一部には、シェールガス生産技術の応用によって、その他の「タイトオイル(非在来型資源)」の生産も今後急速に増えるとの予想もあり、そうなれば、米国は中東諸国のようなエネルギー大国となる可能性すら出てくる。

 

 こう話すと、中国そして人民元の存在を忘れていないかとの声が聞こえてきそうだ。確かに、人口要因に根ざすサプライショックについていえば、この数十年間、中国に勝る恩恵の享受者はいない。労働力という生産要素の投入が大きく拡大したことで、中国経済は世界経済の牽引力として存在感を高めた。

 

 しかし、人口が増加したのは、中国だけではない。世界の人口は2000年の60億人から2011年には70億人を突破したが、そのけん引役には中国やインド、ブラジルといったBRICs諸国だけではなく、インドネシアベトナム、フィリピンといったネクストイレブン諸国も含まれる。実は米国も人口増加国だ。移民受け入れと高く安定した出生率を背景に、同国の人口は2006年に3億人を突破した。

 

 また、中国について補足すれば、今後、「中進国の罠」にはまる可能性がある。中進国の罠とは、中所得国の水準に達した後、経済が停滞し、高所得国に移行できない状態のことを指す。かつて中米のメキシコなどがこの罠にはまった。ブレークスルーするにはイノベーションが必要だが、低コスト・大規模生産以外に特長のない今の中国の産業社会で米国のような自由な創意工夫を駆使したイノベーションが連続的に起こるのかは疑問だ。しかも、中国でも今後、高齢化が急速に進むことが予測されている。

 

 もちろん、日本をしのぐ経済規模を背景に、人民元がアジアを代表するローカルカレンシーになる可能性はある。ただ、通貨には「価値の尺度」「交換の手段」「価値の保存」という3つの要件があり、国際的な通貨として用いられるためにもこれらの要件を満たす必要がある。中でも最後の要件を人民元がクリアするのは相当難しいだろう。たとえば、数億円相当の資産を持つ人が、円どころか、ドルでもなく、人民元でその資産を保有する時代が近い将来やってくるとは、今の中国の政治体制を見る限り、考えにくい。ドルは自由や平等といった価値観によって守られている通貨である。この事実を軽視してはならない。

 

 <ユーロ圏の銀行同盟は財政統合より難しい>

 

 では、ユーロはどうか。1999年の導入時にドルに匹敵する国際通貨が誕生したともてはやされたことはいまだ記憶に新しい。しかし、私もそうだったが、米国のエコノミストたちは一様に懐疑的だった。恒久平和のために通貨統合を実現しようという欧州の政治的意思は尊敬できたが、通貨を一つにして金融政策を統一したところで、財政政策がバラバラのままでは、やがて今回のような問題に直面するのは明らかだったからだ。

 

 確かに今後、問題国の退出ルールを明確化し、銀行同盟や財政統合の方向へと進んでいくならば、人民元に比べれば、ドルに匹敵する存在になる可能性は秘めているとは言える。だが問題は、そのクリアすべき前提条件があまりに高いことである。

 

 中でも銀行同盟は、各国の金融分野の固有の発展過程を考えると、実は財政統合以上に高いハードルかもしれない。たとえば、銀行を監督するのは日本では金融庁だが、別の国では中央銀行だったり、日本の財務省にあたる組織だったりもする。私自身、2002年に金融担当大臣として不良債権処理に取り掛かり始めたときに、他国における自分のカウンターパート(同格の対応相手)がどこにいるのか分からなかったことがある。

 

 そうした違いのすべてを乗り越えて、銀行監督基準を統一し、首尾一貫した監督を実施し、さらに欧州全体の預金保険機構を作るなど本当にできるのか。また、そもそも自国の税金でギリシャ国民を助けるような仕組みにドイツ国民が首を縦に振るのだろうか。政治的決断をしようにも、ドイツは来年総選挙を控えており、メルケル首相も身動きが取れないだろう。

 

 もちろん、欧州は、そのしたたかさと粘り強さによって過去何度も危機を乗り越えてきたので、今回もユーロ解体のような深刻な危機に陥ることはないと思うが、混乱が相当長期に及ぶことは避けられないのではないか。その先に前述したハードルをクリアできる保証もなければ、弥縫(びほう)策と混乱を繰り返すだけに終始する可能性もある。そのような地域の通貨が、近い将来にドルに比肩する存在になるとは考えにくい。

 

 だがその一方で、ドルの一極体制が不安定な均衡の上に成り立っているのは紛れもない事実だ。ドル・シニョレッジ(通貨発行益)、すなわちドル札を刷れば自国通貨建てで外国から輸入できる米国の「特権」は、世界的な経常収支の不均衡を作り出した。そのメカニズムの中で生まれたのが米国発のITバブルや不動産バブルであり、また今回の欧州危機の遠因にもなっている。そして今後、新興国バブルを発生させるのではないかと懸念されている。

 

 しかし、ドルに代わる存在が見えない以上、現実問題として、われわれはこの不均衡とうまく付き合っていくしかない。基軸通貨をすげ替える、あるいは新たに作るなどの抜本的な変化は非現実的なのだから、そのようなことを議論するよりも、危機の芽に対するサーベイランス(監視)やアーリーウォーニング(初期警告)の体制の強化を急いだほうがいい。魔法の杖はないのだ。

 

 ちなみに、国際通貨システムの進化には、貿易面での世界各国の取り組みが大いに参考になると私は考えている。2国間の自由貿易協定(FTA)が各国間で進展したことで、環太平洋経済連携協定(TPP)や「ASEAN+6」のような多国間の枠組み交渉も本格化するようになった。貿易は、グローバルとリージョナルな枠組みの間の緊張関係、いわば「クリエイティブ・テンション」の相互作用の中で少しずつ自由化されてきた。国際通貨システムの進化もそうあるべきだ。

 

 たとえば、中国をはじめとする新興国のフロート制移行などは、そうした建設的な緊張関係の中で自発的に進められていくべきであろう。世界の問題は米国抜きで解決できないが、米国だけでも解決できない。ドルを中心とする国際通貨システムにはまだ進化の余地がある。